木の洞にひとりごと
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その前に。
そもそもブログを書くのは興味を持って欲しいからだろ。 だから昨日私が悩んだ「興味深く拝見」のコメは悪くない。 嘆き哀しむ人の自宅に乗り込んで根掘り葉掘り訊いたわけじゃないんだ。 書かれているものを読んだだけ。 自分の身に置き換えて考えてみる。 私だって私なりの不幸を持っている。言いたくない話は書かない。 書く 、そして消さないという事は読んで欲しいという気持ちがどこかにあるからだ。 結論。私は悪くないぞー! でもね。 ライフラインが復旧しているとはいえ被災者である事に変わりない人を つまらない(私にとってつまらなくなくはないが)事で煩わせたのは悪かった。 この点は反省しないといけないと思います。 さて。この話は本当に終わりにして。 家事は好きじゃないけど、その中で苦にならないのと これがなければなあと思う家事がある。 一番嫌いなのは「弁当箱を洗う」である。弁当を作るのはわりと好き。 食事を作るのはその時の気分による。 ノリノリな時と、「たりいぜ」な時と。皿洗いはいつも嫌。 洗濯は干すのも入れるのも嫌いじゃない。 ところで洗濯干す時って他の主婦の人はどうしてるんだろう? 私は定位置に止める。 洗濯リング(って言うのか? 洗濯バサミがぶらさがってるやつ)の 左側に「息子のパンツ」「娘のパンツ」「娘のキャミ」「私のパンツ」「旦那のパンツ」 右側に「私のブラと靴下」「娘のストッキング系」「息子の靴下」「旦那の靴下」。 タオルは左側の奥の竿。パジャマのズボンとか旦那のシャツはその手前。 右側の竿にハンガー物をかける。手前の竿に色物を掛ける。濃いものは室内。 畳む時、取り入れた洗濯物はまずそのまま室内にぶらさげ、 まず「洗面所に持っていくもの」だけを集めて畳んで積み上げ、それから 「私の部屋にもっていくもの」「子供達のもの」をそれぞれ外して畳むを繰り返す。 てんでばらばらに干すより効率的だと思うんだけど 知人とか見たら「偏執的~」って言いそう。 掃除は片付けるのは好き。掃除機は嫌い。 拭き掃除は気分次第。 とにかく捨てるのが好き。 育児。 嫌いな育児。「子供をあやす」「子供と遊ぶ」 んこのおむつを換えるより嫌いである。 おむつ換えというのは「分かりやすい」仕事だからいいんだ。 赤ん坊はわけがわからん。だから 世話するのはいいが、相手をするのは苦手。 哺乳瓶でミルクをあげるのは好き。 あうあう喰らいつくのを見るのも、うくうく飲むのを見るのも 最後に哺乳瓶の底から乳首の方を覗き見るのも楽しい。 子供は嫌いだが、だからこそか、子供を調教するのは得意。 遊びに来た子を我が家のルールに無理矢理従わせる。 だがそういう子供達が私を嫌うかというとそうでもない。 小さい頃一度ならず私に泣かされた子供達が、 今でも私の顔をみると話し掛けてくる。 子供でも動物でも秩序は好きなんだと思う。 ルールを守るという事はルールに守られるという事でもあるしね。 子供の相手が嫌いだから 自分の子と遊ばせるために他人の子を預かる。 子供と遊ぶくらいなら、その子の分もご飯を作る方が楽なのである。 だから「10人の子供に食べさせる料理」を作るのは結構好き。 皆で食べればそれだけでおいしく感じるから誰も文句言わないし。 PR
誰も傷つけない言葉なんて そもそもないんじゃないかね。
本日の朝刊は重かった。 厚さじゃない。内容が。 原発。死刑。臓器移植。 原発は私は反対だ。今日の記事に研究者たちの事が書かれていた。 学者も政治家も要は金か? 死刑は私は存続派だ。 今回の無期判決は腹が立った。 自首がどう影響するかだけが焦点だと思っていた。 死刑は報復じゃない。遺族が立ち直るための手段だと私は思う。 犯人は被害者のみならず遺族らの人生も踏み躙ったのだ。 遺族が死刑を区切りとして歩き始めたいと願うのなら死をもって償え。 臓器移植は基本反対。でも心情的には否定も批判も出来ない。 10代の子供であれば移植して生き延びさせたいと思っても不思議はない。 提供する側の問題は、本人ではなく家族の問題だと思う。 私は人間は死んだらそこまでと思っているので遺体の損傷には拘らない。 だが家族が嫌がるなら提供はしない。 逆もしかり。当人が嫌だと言うのなら勿体無いと思っても提供しない。 旦那は他人の臓器を貰ってまで生きたいのかと言う。 諦められる年齢と諦められない立場がある。それは仕方ない。 最初から選択の余地がなければいい。それならば死を受容できる。 だからその意味で臓器移植の道は罪だと思う。 じたばたせず死を受け容れたい。でも心の片隅で可能性を考えてしまう。 哀しみだけで見送りたいのに 提供をするの受けるのと考えなければならない。 乳児の移植、それも海外に渡っての手術はどうかと思う。 それは高齢な母体での人工的出産に通じる。 「自分の子」がどこまで特別な存在であるか。 子供はいる。遺児も捨て子も。その子と自分の遺伝子を引き継いだ子と何が違うのか。 子供は育てて初めて自分の子供になると私は思っている。 仮に自分の本当の子が他にいると知らされても 私は絶対に今の娘や息子と交換する事はしない。こいつらが「私の」子なんだから。 話が逸れたな(いつもの事だ)。 今回の移植は親がそれで救われるのならいいじゃないかと思う。 失わなければならなかった我が子が、部分的にでもどこかで生きていてくれる そう考えられるならそれでいいじゃない。 決心した状況までは分からないからね。 脳死の可能性の告知と同時に提供の打診をされたら私は怒る。 死は死でしかないが、訣別は大切な儀式なんだ。 臓器を得て生き延びる命も命だが 見送った後に生きていく家族の人生も命なんだ。 大事な儀式をしくじって引き摺りたくはない。 こういう話だって所詮今の私には他人事で。ただの関心で。無責任で。 けど仕方ないよね。
いつまでもランキングに残ってるから
なんか引き摺った気分だわ。 これは嫌味のつもりでも棘のつもりでもありません。 最終的なレスを読んで、私が間違っていたのかなと まだ客観的に考えられないので書いてまとめようと思うだけです。 被災者(に含まれる)人のブログに入って 震災に関する記事を読む。 蒙った被害や状況も書かれているが 災害に対する心構え(の参考になるような記事)も含まれている。 報道されない、半壊住宅やライフラインを切断された地域の情報に触れて それらを「興味深く」感じる事は やっぱ内側の人間にとって不愉快なことになるのだろうか。 でもそれならそれで(棘)なんてぼかさずに はっきりと「興味をもって読まれるのは不愉快です」と言って欲しかった。 もう話はしたくないと言われちゃったけど それだけは伝えたいなあ けど 読まずに捨てられる のは構わないが これ以上刺激したくない。 別の、被災地近隣の人の書いたブログに 同じように「興味深く拝見させて頂きました。記録してくださってありがとう」とメッセージを送った。 大変さもしんどさも伝わってきたし その合間に「だからこういう用意があったほうがいいよ」的な事も書かれていたから。 恐怖も不安ももろもろの葛藤も想像の上をいく。 「興味深く」って表現は被災者を傷つけるんだろうか。 今回の事に限らず たとえば事故や事件の記事を読んで「興味をもつ」のは 被害者や当事者への侮辱になるんだろうか。 それは安全な地に立つ者の驕りなんだろうか。 興味深くと興味本位は勿論違うよ。 その混同があったにせよなかったにせよ不愉快にさせたんなら謝りたい。 でも謝るという行為自体、許しを請うものだと私は思う。 反省するふりする被告より、いっそふてぶてしい被告の方が真実味がある。 やらかした事は償えない。 私を排除する事で終える事が出来るなら そうしてもらう事にしよう。 でも次をやらかさないために言葉の選び方は覚えておかないといかん。 けどさあ。 実際のところどうなんだろう。 そう。レスの中に「不幸な経験をしたリアル知り合いに対しても言うのか」とあった。 言うだろう。 興味深くという言葉を使うかどうかまでは分からないけど 「そっかー やっぱ 当事者じゃないと分からない事ってあるんだね」くらいは言うと思う。 そうやって不幸をはぐらかす事も 相手を情報発信者として「ただの被害者」にしない事も まあ意図しているわけじゃないけど 思いやりにはならないのか。 時々感覚ずれてるからなあ 私。 ブログというかネットだってコミュニケーションだってのは重々承知してるよ。 私 リアルとネットの違いあんまりないよ。 なぜかネットでの方がちょこっとお利巧に見られることが多いけど それは話し言葉と書き言葉の違いだと(落差が激しすぎると昔友人に言われた)思う。 まとまんないなあ。 とりあえず最終的なレスを戴いたという報告方々 あの(棘)は私の文章を嫌味にとったが故でなく 「興味深く」という表現(というか私の心情)に対してのものだった という事をお伝えして、この件は本当の本当に終わりにしたいと思います。 ……から早くランキングから消えてくれたまえ。
塾に行かなくても受験生はお金がかかるんでした。
模試代。いきなりきたか。 「全員参加以外の模試も全部受けなさいよ」とは言った。 1・2年の模試回数が娘よりずっと少ないのが不安だった。 試験会場に慣れるためにも己れの力量(バカさ加減)知るためにも 模試は必要だ。 だがその費用も馬鹿にならん。 ああ。余震。余震っていうにはあまりの規模。そして原発。 天罰発言をしておきながら原発は必要と言う都知事。 原発こそ一番に神の怒りを買うものじゃないのか。 自然界にないプルトニウム。 東京湾に原発を造る事になっても都知事は仕方ないねと言うのだろうか。 今必要としている電力を満たす事を考えるより 今使っている電力を減らす事をどうして考えないのだろう。 だが原発銀座の福井でも推進派が勝利した。なんでっ? 余震も原発も もう嫌だ。 とりあえずの安全圏にいる私が泣きたくなるくらいなんだから 被災地および周辺地域の人たちってどんなんだろう。 それともそんな域はとっくに抜けてしまっているのか。 都知事もどうかと思うが 東国原も間抜けだと思うよ。 県知事を辞めることが責任をとることって詭弁にもほどがある。 それなら政治家やめろ? 大人しく芸人しとれや。 いいや もう 顔も見たくない。 なんかいい事ないかな ないかな。 固定資産税。娘の授業料。テキスト代。息子の模試代。 お金は減るばっかで体重だけが増えたよ。くっそう。
以前に新聞か何かで読んだ。
「昔は歌謡曲は聴くものだった。 だがカラオケの浸透により今では(自分が)歌うものになった。 そのため聴いて気持ちのいい歌が流行していた頃と違い、 現在は自分が歌えるかどうかがヒットの決め手となっている」 私がミクシィを避けるのはそれと同じ事かも知れない。 書籍を媒体とした場合、作者と読者の境界は明解である。 ネットにサイト(ホームページ)を開設し、作品や意見を発表する。 作者とはいえ素人だから、この境界は幾らか越えやすいものとなる。 キリリク(カウンターの数字によってリクエストを受ける)や質問などで 双方向性も生じる。 しかしそれでも「管理人」と「閲覧者」という立場の違いははっきりと残る。 ブログの場合これは更に薄れるが、 それでも管理人の記事に対してのコメントの形であり、 関係はやはり対面的だ。 ミクシィは(入った事がないので違っていたらごめんなさい) この境界が殆どないように思われる。 座談会というか茶話会というか井戸端会議というか。 カラオケは楽しい。 だがステージに立って歌うのとボックスで歌うのとは違う。 ステージに立つ事は難しいし、それは一種闘いでもある。 発信し続ける事は時に苦痛だし、孤独でもある。 書く事がただ楽しくて書いている時はいいが、反応が欲しい時だってある。 かつてサイトの管理人達がミクシィに入り込んで更新を怠ったのも この孤独と誘惑に負けたからなんだと私は思ってる。 境界のない世界はぬるま湯のように心地いいんだろう。 さまざまな娯楽や通信が発達して いろんな領域でこの境界がぼやけてきている気がする。 テレビを見ていて以前は芸能人の住所が公開されていたと知った。 今はもう芸能人を特別な人として ファンが自主的に境界線を引く事をしなくなったので リスクを避けるために公表しないのだと言っていた。 境界が曖昧なことがいい事なのか悪い事なのか。 これって「殻つき玉子」と「殻なし玉子」の論理にも通じるのかしら。 いかん。またぐるぐるしてきた。 殻つき玉子云々は想像すればお分かり頂ける。 ボールに割りいれた玉子はまとまりがいいが、個体性を失う。 汚れも付着する。 殻つき玉子は一緒の箱に入っていても、いつでも一個ずつになれる。 だが互いの中身を見せ合う事は出来ない。 何の本で読んだんだったかな? 面白いよね。 で何が言いたかったって、「どうして私がミクシィに偏見をもつか」なんだ。 |
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