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木の洞にひとりごと うろ覚えのうんちく うろうろと右往左往
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以前に新聞か何かで読んだ。

「昔は歌謡曲は聴くものだった。
だがカラオケの浸透により今では(自分が)歌うものになった。
そのため聴いて気持ちのいい歌が流行していた頃と違い、
現在は自分が歌えるかどうかがヒットの決め手となっている」

私がミクシィを避けるのはそれと同じ事かも知れない。

書籍を媒体とした場合、作者と読者の境界は明解である。
ネットにサイト(ホームページ)を開設し、作品や意見を発表する。
作者とはいえ素人だから、この境界は幾らか越えやすいものとなる。
キリリク(カウンターの数字によってリクエストを受ける)や質問などで
双方向性も生じる。
しかしそれでも「管理人」と「閲覧者」という立場の違いははっきりと残る。
ブログの場合これは更に薄れるが、
それでも管理人の記事に対してのコメントの形であり、
関係はやはり対面的だ。
ミクシィは(入った事がないので違っていたらごめんなさい)
この境界が殆どないように思われる。
座談会というか茶話会というか井戸端会議というか。

カラオケは楽しい。
だがステージに立って歌うのとボックスで歌うのとは違う。
ステージに立つ事は難しいし、それは一種闘いでもある。

発信し続ける事は時に苦痛だし、孤独でもある。
書く事がただ楽しくて書いている時はいいが、反応が欲しい時だってある。

かつてサイトの管理人達がミクシィに入り込んで更新を怠ったのも
この孤独と誘惑に負けたからなんだと私は思ってる。
境界のない世界はぬるま湯のように心地いいんだろう。

さまざまな娯楽や通信が発達して
いろんな領域でこの境界がぼやけてきている気がする。

テレビを見ていて以前は芸能人の住所が公開されていたと知った。
今はもう芸能人を特別な人として
ファンが自主的に境界線を引く事をしなくなったので
リスクを避けるために公表しないのだと言っていた。

境界が曖昧なことがいい事なのか悪い事なのか。

これって「殻つき玉子」と「殻なし玉子」の論理にも通じるのかしら。
いかん。またぐるぐるしてきた。

殻つき玉子云々は想像すればお分かり頂ける。
ボールに割りいれた玉子はまとまりがいいが、個体性を失う。
汚れも付着する。
殻つき玉子は一緒の箱に入っていても、いつでも一個ずつになれる。
だが互いの中身を見せ合う事は出来ない。

何の本で読んだんだったかな? 面白いよね。

で何が言いたかったって、「どうして私がミクシィに偏見をもつか」なんだ。
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