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木の洞にひとりごと うろ覚えのうんちく うろうろと右往左往
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誰も傷つけない言葉なんて そもそもないんじゃないかね。

本日の朝刊は重かった。
厚さじゃない。内容が。
原発。死刑。臓器移植。

原発は私は反対だ。今日の記事に研究者たちの事が書かれていた。
学者も政治家も要は金か?

死刑は私は存続派だ。
今回の無期判決は腹が立った。
自首がどう影響するかだけが焦点だと思っていた。
死刑は報復じゃない。遺族が立ち直るための手段だと私は思う。
犯人は被害者のみならず遺族らの人生も踏み躙ったのだ。
遺族が死刑を区切りとして歩き始めたいと願うのなら死をもって償え。

臓器移植は基本反対。でも心情的には否定も批判も出来ない。
10代の子供であれば移植して生き延びさせたいと思っても不思議はない。
提供する側の問題は、本人ではなく家族の問題だと思う。
私は人間は死んだらそこまでと思っているので遺体の損傷には拘らない。
だが家族が嫌がるなら提供はしない。
逆もしかり。当人が嫌だと言うのなら勿体無いと思っても提供しない。

旦那は他人の臓器を貰ってまで生きたいのかと言う。
諦められる年齢と諦められない立場がある。それは仕方ない。
最初から選択の余地がなければいい。それならば死を受容できる。
だからその意味で臓器移植の道は罪だと思う。
じたばたせず死を受け容れたい。でも心の片隅で可能性を考えてしまう。
哀しみだけで見送りたいのに
提供をするの受けるのと考えなければならない。

乳児の移植、それも海外に渡っての手術はどうかと思う。
それは高齢な母体での人工的出産に通じる。
「自分の子」がどこまで特別な存在であるか。
子供はいる。遺児も捨て子も。その子と自分の遺伝子を引き継いだ子と何が違うのか。
子供は育てて初めて自分の子供になると私は思っている。
仮に自分の本当の子が他にいると知らされても
私は絶対に今の娘や息子と交換する事はしない。こいつらが「私の」子なんだから。

話が逸れたな(いつもの事だ)。
今回の移植は親がそれで救われるのならいいじゃないかと思う。
失わなければならなかった我が子が、部分的にでもどこかで生きていてくれる
そう考えられるならそれでいいじゃない。
決心した状況までは分からないからね。

脳死の可能性の告知と同時に提供の打診をされたら私は怒る。
死は死でしかないが、訣別は大切な儀式なんだ。
臓器を得て生き延びる命も命だが
見送った後に生きていく家族の人生も命なんだ。
大事な儀式をしくじって引き摺りたくはない。


こういう話だって所詮今の私には他人事で。ただの関心で。無責任で。
けど仕方ないよね。
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