忍者ブログ
木の洞にひとりごと うろ覚えのうんちく うろうろと右往左往
[1] [2] [3] [4] [5] [6]
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
リンク
ブログ内検索
プロフィール
HN:
shin
性別:
女性
バーコード
アクセス解析
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

子供を自転車の前に乗せ、ひとりのお母さんが停まっている。
前から来る人とすれ違えないから待っているのかなと思ったら
違った。
友達ママを待っていたのだ。
一台。また一台。
三台連なって走り出した。何れも前に子供が乗っている。
なんで一緒に走る必要があるんだ。
後ろの二台は並び出した。
速度は勿論遅い。
子供を積んでいるうえに喋ったり後ろを気にしたりしているんだもの。

おしゃべりしたいなら誰かの家に落ち着けばいいだろう。
どうして買い物先や道路で会話しなきゃいかんのか。

ええ。通った道です。
私もママをやっていた頃、周囲が見えなくて迷惑かけた事ありますよね。
だから全面的に批判する権利はありません。

でもさ。私は外ではひとりで行動したよ。
公園やマンションの敷地ではグループに属したりもしたけど
わざわざ一緒に買い物になんか行きませんでしたよ。
勿論並んで道路なんか走ったりしません。

集団に混じるべき時と ひとり(といっても子供と一組だが)で動くべき時と
それぞれあると思う。必然もないのにツルむな!
そんな親の子だから「誰かと繋がってないと不安」ってメール中毒になるんだ。

せめて他人様に迷惑かけないようにね。
道路の真ん中でのおしゃべりは邪魔ですよ。
PR
息子で一回、実母で二回、今回は娘で。

先日の日記で触れたが
過保護をやめようと思ってたところだ。

近所に住む先輩が登校拒否気味だったこともあって
「学校に誘うんじゃなくて まず遊びに誘ったら」と進言し
夕方の呼び出しにも快く送り出していた。
話し相手になる事で先輩の気持ちが落ち着くならと思ったのだ。

その呼び出しが頻繁になるわ
夕食前後に出て行くようになるわ
家族の前で携帯いじるわで
そろそろ意見しなきゃいかんかなと思った矢先の事故だった。

こちらが突き放したのと
先輩との外出が上手くいったのと
学校の帰りに「ふたりのり」の初体験に成功したのと
いろいろ重なって
なんつーか「大人になった気分」みたいな感じになっていたっぽい。
自分ひとりじゃまだ何も出来ないくせに
家族を軽視することだけ先行しているように私には見えた。

それは自立じゃないだろ。
勘違いにどう気づかせようと考えていたら
自転車のふたりのりで怪我をした。

靭帯損傷。全治二ヶ月。
現在ギプスと松葉杖の世話になっている。
学校は休めないと言う。
家族の協力なしには通学など不可能だ。

医療費やらタクシー代やら その他もろもろ出費が痛い。
それでも仕方ない。
少しは目が覚めただろうし
何より前から気に掛かっていたのだが
「弱者への思いやり」に欠けていたから それも身につくだろう。
思い通りに動けない不便は身をもって経験しないと分からん。

だがこれで何も教訓が残らなかったら腹立つよなあ…

娘に対して過保護である。
自覚はあった。
あったが、今のうちだからといろいろ世話をやいていた。
罪滅ぼしの気持ちもあった。
幼少期には厳しくしつけ、小学校に入って直ぐには
担任の言葉を真に受けて「もっと頑張らなきゃ」とせっついて
高学年になってひと息ついたところで
私はネット同人にハマって家族をほったらかした。
6年の時だっただろうか。
はっと「これではいけない」と気づいて、以来過保護。

この年頃の娘に対しての過保護というのは
親の負担はそれほどのものでもないのだ。
「目の届くところに留めておける」という意味でむしろ楽でさえある。

子供を自由にしてやるというのは
親の監視がなくなっても
或いはないからこその自制ゆえ
子供が道を外さないという信頼を意味する。
同時に
子供が親の意に染まないことをしたとしても
それが子供の自我なのだからと容認する余裕をも意味する。

だからもういい加減過保護をやめなければならない。
そう分かっていても手を出してしまう。

駄目な親にはなりたくないんだけどな。
 

マンションの隣の家には小さな子供がいる。
エレベーターが違うから顔を合わせる事はない。
でも声はよく聞こえる。

母親が働いているのか、祖父母が昼間世話をしている。
ベランダでの会話の比較をすると面白い。
祖母の場合。
「洗濯ばさみをふたつ とって下さいな」
「ああ ありがとう(大袈裟に) じゃあ 次はね」
「はあい 全部終りました ○○ちゃんが手伝ってくれたから 助かりました」
などなど。これをいちいち大声でゆっくり仰って下さるわけですよ。

母親の場合。
「あああ もう ちょろちょろしないで」
「わかった わかりました。後でね 今忙しいの」
「だから 余計なことしないで って言ってるでしょ!」

いやあ。経験済みだから分かるんですよ。
別にお母さん悪くないと思います。仕方ないよね。
むしろおばあちゃんの方にこそ私は苛つきます。

まあ 祖母に限らず母親でもこういう応対する人いますよね。
おっとりと子供をおだてておだてて
なんで毎日の事なのにやってられるかなと思いますが
たとえやれても私はやりたない。

娘とぎょうざを包みながら
「役にもたたん子供に手伝わせるのなんかごめんだね。
ずっとつきっきりで見てなきゃいけなくて 手間も倍かかるのに
自分が切ったにんじんを誰かが食べるたび
『それ ○○ちゃんが切ったのお』って得意げに言われるんだぜ?
でもって『助かったわあ』なんて相槌打たされるんだぜ」
と喋ったら
「親として それどうよ」と言われた。

ああ。そう思うなら あんたはチビがきに手伝わせればいいさ。
何の役にも立たないのにふんぞりかえる子供に育つだろうさ。

子供は誉めて育てるなんて 私は認めないぞ!
三歳まで子供は動物。調教あるのみ。
誉めるのはもーっと後になってから。
 

息子が行方知れずでわたわたしていた時電話が入った。
慌てて出たら近所の子(っても高校生)で「作文用紙ない?」だった。
あるけど息子も使ったから残り2枚。
「2枚でもいいや。まずそれだけ書く」と取りに来たけど
なんせそれずーっと前に私が自分用に買ったやつだから古い。
新しいのと混ぜたら色違うかもよ?と言った。
原稿用紙くらいコンビニに売ってないかしら?
「どうかな。どうしよう。どうしたらいいと思う」と訊く。
「お母さんいないの」
「いる」
「んじゃ お母さんに聞きなさい。その2枚要るならあげるから」

私にしか出来ない事ならやってあげるし相談にも乗るけど
そんなのは親の仕事でしょう。
本を貸してとか書き出しが決まらないって言うのなら聞いてあげるさ。

なんて考えて、前に読んだ新聞の投書を思い出した(長い前振りだ)。
本屋で自分の子供に絵本を読んでいてあげたら
別の子供も寄ってきた。その子の母親はこれ幸いとその場を離れ雑誌を見に行った。
釈然としないでいたら自分の子供がその子の手を引き、
雑誌コーナーまで連れていってその子の母親に「ちゃんと面倒みるの」と引き渡したと。

おいおい。
自分は正しい母親みたいな態度だけど
そもそも「本屋で絵本を子供に読む」ってどうよ?
そういうコーナーのある本屋なのかな? 違ってたらすごい非常識だぜ?
でもって他人の子に読み聞かせるのを渋ってるけど
そこで自分が投げ出したからといって読んであげるような母親じゃないわけだろ。
だったらたとえ少しでもその子に愉しい思いをさせてあげようと思わないかな。
私は両側に他人の子を抱えて病院の待合室で本を読んだりしてたよ。
見知らぬ子が寄ってきたらその子にも見えるように絵本の向きをかえたよ。

社会が子育てに冷たいと言うのなら
せめて子育て中どうしぐらい優しくしてあげればいいじゃない。
癒された分どこかでその人も優しくできるかも知れない。
 

忍者ブログ [PR]