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木の洞にひとりごと うろ覚えのうんちく うろうろと右往左往
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昨日広報車が回ってきた。

東海豪雨の時は未明に回ってきた。
夢うつつに聞きながら「逃げなきゃ!」と思った。
「どこへ? 何を持って?」と目が覚めたところで
自分がいるとこまで水がくるわけないと気づいた。
そして朝起きたら実家のあたりが水没していた。

その後堤防の補強などいろいろ対策を講じたし
何より前回の決壊は人災の部分が大きかったから
さすがに今回はないだろうと思う。

人災というのは
「もう入れちゃいかん」と言うのに支流や用水やポンプ場から
水をどんどん流し込むから川が溢れて堤防の一部が決壊したんだ。
後から新聞でそれを知り、無傷だった対岸や沿岸の地域に
無茶苦茶腹が立った。
被害をこの一帯が背負ったんだからもうちょっと援助したら?とも。

雨水が溢れて浸水するのも大変だろうが
決してきれいとは言えない川が氾濫して浸水するのは
もっと大変なんだぞ。臭いんだぞ。あっという間に水浸しだし。


父の通院がらみで母の施設利用の予定を変更して
その連絡不備でごちゃごちゃしてて
昨日一度は、「今朝私が実家に行ってショートスティの荷物を作る」
という段取りになったのだが、予報図に慌てて
下手に出て行ったら帰って来れなくなると
なんとか母に荷物を作らせようと昨夕電話した。
父は頭から無理と決めつけているが、無理なわけないのだ。
自分の荷物なんだから。一番ややこしい薬は事前に仕分けてある。
「お母さんが言うものをお父さんが運んでくれたらいいし
場所が分からなければ私が電話で教えるから」
とにかく母に電話を替わってくれと言う。
したらば。
電話口に出た母、しれっと「昨日ヘルパーさんが作ってった」だと。

なんでそれを父に言わんかあああ!
半日気を揉んだ私らが馬鹿みたいではないか!
父も父でなんで母に相談せんのか。
少しは夫婦で情報交換しろ!

あの夫婦は互いに腹(懐具合含む)の探りあいばっかしてるから
情報を相手に与えるまいとする習性がついてるんだ。

のこのこ台風の中出かけていったら 私が馬鹿みたいじゃないか。


息子は休校である。一日家である。くさりそうな顔をしている。
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テレビを観ていてUFO話題に
「本当に宇宙人がいて 30年前から地球に来てるんなら
何らかの進展があるはずだよな?」と呟く。
昔も今も変わらないネタに、宇宙人は来ていないと結論し、
だが待てよ
実は密かに潜り込んでいて地球人のふりをしているんじゃないか。
侵略しやすいよう、或いは自分たちに住みやすいよう
地球を開拓しているんじゃないか
などと思いつく。

温暖化も核開発も、もしかしたらこういう宇宙人の仕業だったりする。
優秀な人材が送り込まれている筈だから
政界や財界の重要な地位に就くのも簡単なのだ。

ガミラス星人がせっせと世界中に原発を造り、
時を待って一斉に爆発させる。
かくて地球はガミラスのものになる。


今日のふくしま作業員日誌。
全身の放射能値を測った後、「靴の裏」を測る。
カウンターの針が振り切れ、靴は没収となる。
ものすごくショックな筈なのに
「新しい靴が支給されるという噂は本当だった」と書いてあるだけ。
そして「仲間にも羨ましがられるし そろそろ新調したかったとこなので
得した気分のような」と結ばれていた。

……なんか無性に悲しくなってきた。
新しい靴に喜んでいる事がじゃなくて
基準値以上の放射能が当たり前になってしまっている感覚に。
そんな危険を冒して作業しているのに
(前にも書いたけど)日本を背負っている気負いも全くない。
福島の片隅で、名もない作業員のひとりとして
淡々と毎日を送っている。
彼らがいなければ日本はどうなるか分からないのに。


台風である。まだ雨だけ。
紀伊半島の映像を見ていて、
人間は無意識に「見えざる手」を望んでいるけれど
そんなものはないのだと分かったら、一体どうするのだろうと
思った。
「人間は」って書いたが、「私は」が正しいのか。

アダムスミスのいうそれより、もっと広範囲の
いやいやもしかしたら私は社会科はさっぱりだから
全然違う意味での「見えざる手」になってしまうかもだが、
収支がどこかでとんとんになる 
偏った地域や人に不幸が重なるわけがない
という祈りに似た考え方である。

話はまた東北に戻るけど
新聞に見開きで特集があった。
小学生のふたりの女の子の話をそれぞれに読んで
子供ってすごいなあと感じた。
ひとりは「ファイト」と叫んだ子。
もうひとりは津波の渦に巻き込まれながらも
習った着衣泳で生き延びた子。
「怖いというより 仕方ない 着衣泳でもやるかと」
大人が思っているより子供はずっと逞しい。
ガミラス星人に負けるな!(って今の子はガミラスなんか知らないけど)
前にも触れた話題だが、昨夜「孤高のメス」をテレビで見て
またいろいろ考えた。
家事したり風呂に入ったりしていたので映画自体はちゃんと見てない。

風呂から出てきたら
ドナーの母親が息子に別れを告げているところだった。
まだ温かい息子の身体を手術室に見送る。
手術室で息子の波長が平らになる。臨終だ。
亡骸となって息子が出てくる。それを見て「駄目だ……」と思った。
到底耐えられない。

自分がドナーになる分には平気だが、肉親のそれは容認できない。

これまで心情的には理解できると中立の立場に留まっていたが
今回は否定派の位置から移植を考える。

当事者の意識についてはあれこれ以前に書いた。
今回はもっと社会的に、否定の理由を考えた。
ひとつ、膨らむ医療費。
ひとつ、あまりに局所的な医療。
ひとつ、明らかにされないデータ。

移植後の平均余命。一度の移植でどれだけ寿命を延ばせるのか。
臓器の年齢。50歳の臓器を20歳の人に移した場合、
ドナーのもともとの寿命が尽きた時、移植された人はどうなるのか。
60過ぎの人がドナーになった例を新聞で読んだ。
臓器だけでも生き永らえたらと遺族は語ったが、利己的に聞こえた。

移植後、免疫抑制剤の投与を受けないといけないと聞いた。
その費用はどれくらいなのか。
移植に必要なスタッフの人数、設備投資、その他の費用など。
もろもろの一覧を提供希望者に提示すべきではないか。

要は効率の問題なのだ。
優秀な医師、最新の設備、カウンセラーやコーディネーター、看護婦。
ヘリなどの運搬機関。
ひとり もしくは数名の命を救うためにどれだけの人員を必要とするのか。
それらの医師、看護士が助けることの出来る、
本来助かるべき命の数との比較。
手術や術後処置、抑制剤投与などのその後の治療費、
それは保険適用なのか、総額で幾らぐらいになるのか。

宗教的にはどうなのだろう?
アンデスの生還者が教会に受け容れられたぐらいだから
他人の肉体を使って生き延びることへの批判はないだろう。
だが、「臓器となって命を繋ぐ」という考え方は?

日本は遅れていると言う。それがいけないことなのだろうか。
欧米での推進が、経済的な目的ではないと言いきれるのか?
募金で一億目標とするという事は少なくとも病院側にその半分は渡る。

臓器移植そのものがいけないと言うよりも
そういう選択肢を作ってしまった事が罪なんだ。
なにもかも運命と受け容れられたら、もっと楽に死ねるし
もっと心穏やかに見送る事が出来るのに。
9月から受講生となった息子。
古典と英語の二講座だけだったが、
昨日もう一講座受けたいと言い出した。

昼前息子を送り出し、
午後にある無料講座も受けるから昼食要らないと電話を受けて
うとうとまどろんでいた時に
電話でおこされた。
「というわけで いい?」と訊くが、寝ぼけていて分からない。
「あんたのいいようでいいがね」と答える。
どうもその日の無料講座はお試しみたいで、来週から本講座となる。
まだ講義は受けていないが(5時過ぎからだから)好きな先生だし
長文はやっておきたいので申し込んでもいいか、みたいな。

結局自習室で勉強しているうちに眠くなり
無料講座は受けずに帰って来た。お昼ね小僧め。

だが30分の仮眠の後、本日のプリントを広げ
レコーダーのイヤホンを耳にぶっこみ、熱心に勉強を始めた。
「色ペン10本要るんだぞ」とエバる。
ああ そうかねそうかね 大変なお勉強でござますことね。

200人を超す人気講座を受けている受験生 のステイタスに息子はご満悦。
私は塾否定派だけど、いつまでもそれを押し付けているわけにもいかないし。
私が嫌いだと分かってて塾を上手に利用する息子って柔軟でいいなと思う。
つくづくこいつは私とは他人なんだ。
お昼ね体質だけ同じだけどな。これは困ったもんだが。
本日の眼科で一週間の予定は終った。
来週も(私にしては)忙しい。気も重い。
だが今月末で接骨院通いは終る。整形も終る。

昨日美容院に行った。二ヶ月ぶりだ。
ショートならこの間隔は普通だろうに
オーナーは「まだよかったのに」と言う。それは来るなという事か。
前回暑さゆえに極限まで短くと切って貰った。
それがいい具合に伸びてきたところなんだろう 多分。
だがまだ暑いし、前髪が重いんで気になるのだ。
「また短く?」 「短く」
「ムースとかワックスで前髪あげればいいんだよ」 「どっちも嫌い」
短くカットした髪は、そのままでは小学生のようである。
これだってワックスを使えばそれなりになるんだろうけど。

まあ次は年末か。

新聞に週末「ほどほどの人生」というコラムが載る。
宗教評論家の文章である。毎回愉しみにしている。
読む人を楽にしてくれる記事である。
今週は、自分が負けたことで相手が勝つのならそれでいいじゃないか
みたいな事が書いてあった。負け惜しみでもそう考えていたらいい。
自分と自分の家族だけの単位で見るから不幸なのであって
もっと大きな範囲で見たら 誰かは幸福なのだからそれでいいのだ。

範囲で見るのは難しくても長いスパンで考えれば
大抵の事は収支が揃って たいした事じゃなくなる。
経験的に分かってきたのだけれど それでも右往左往してしまう自分が鬱陶しい。
人間最後は死ぬだけ。
今を愉しまなきゃ損なんだってば。
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