だああああ! 捨てたい捨てたい捨てたぁい!
娘の引き出しを整理する。まあ出てくる出てくる。
記憶にないTシャツ、ずっと昔に買ったやつ、色が出ちゃってる服。
「キャミとシャツがない」と何度も買物に行ったのだが
だったらこのTシャツの山はなんだ!
買った事を怒ってるんじゃない。向こうで着潰すつもりでも
持っていく気になれないほどの代物ならさっさと捨てろ。
一年も二年も着ない服なんて置いておいても仕方ないだろ。
6割を占めるどうでもいい服のせいでお気に入りが皺になるんだぞ。
同じ事を母親に何度も言った。
だが絶対に着ない服でさえ捨てさせてくれない。
ものを捨てるには決断を要する。
捨てた途端それが必要になることだって勿論ある。
だがその確率を想定し、それの低いものから捨てていくしかない。
「いつか使う」「誰かが使う」と溜め込むのは容易だ。
これは決して倹約とかエコとかと違う。ただの怠慢だ。
必要なものを見極める。そこから外れたものを処分する。
母も娘も
この思考過程、決断に要する気力、それらから逃げているに過ぎない。
そして築き上げたゴミの山の始末を自分でつけるかというと
娘はこれからの課題としても
母にはその可能性は全くない。
ゴミのみならず全ての問題の尻拭いは私である。
平気で押し付けられるから、目を背けていられる。
責任もとれない言葉を平気で吐く。
娘の部屋を片付けながら、
意図して忘れていた母への怒りが込み上げる。
あああ。丸ごと捨てたい!
ところで。
昨日の日記に書いた「母の衣類を買った」件について。
私とて一応ヘルパー講習の受講生だから
年配者が古い持ち物に執着するとか、馴染んだものしか身につけたがらないとか
ちゃんと知っている。
相手が利用者さんなら私は黙って従うだろう。
通院付き添いだって、こぎったない格好だろうとなんだろうと傍にいるだろう。
私が新しい服を着ていると「どこで買ったの」と訊く。
そこらのSCのバーゲン品である。娘のおふるだったりもする。
「上手に見つけて来るんだねえ」と言う。
だったら私が選んだ服を着たっていいじゃないかと思う。
姑や利用者さんとは昔の確執はない。
だが実の母に関しては、幼い頃からのこと全部が頭の中に詰まってる。
私の宝物を棚からわざわざ引っ張り出して捨てた母の
ごみの数々まで尊重する気にはどうしてもなれない。
私に恥をかかせるような仕打ちをしてきた母の体面を
それでも以前はそれなりに繕ってきたけれど
正直もうどうでもよくなった。
私は心が狭い。人間が小さい。性格が悪い。
だが母ほどじゃないとは思うぜ。ふんっ!
PR