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木の洞にひとりごと うろ覚えのうんちく うろうろと右往左往
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財布が見つかったあああああ!

夕方警察署から電話あり。
息子が頼んだ署と違っていた為に照会が遅れたが
落とした翌日に既に届けられていたとのこと。
平日夕方5時半までというから自転車かっとばして受け取りに行って来た!
(部活帰りじゃ間に合わない)
現金もそのままで
「相手の方の連絡先は」と尋ねたら
「お礼は要らないとの事で名前も仰らなかったそうです」 だって!

帰りに用意したお礼を募金箱に入れてきた
(といっても用意したのは新札なので財布の中のボロ札を)。
拾って下さった方の居住区と信じて落とした場所近くのスーパーで。
(意味あるのか? なくてもいいの 気持ちなの!)
ついでに勢いでマンガも買っちゃった。まだ読んでないんで面白いかどうか分からん。
面白かったら息子にも読ませたいかなーと。
(あいつサービス業に向いてると思うんだけどな)

いい話だよねー
最初に電話した署の人の対応もすごく丁寧だったし
今回の署の人も電話の人は声美人で優しくて
窓口対応の人も可愛くて優しくて。
拾ってくれた人も優しくて。

息子! よかったね。

連絡が遅れた事もよかったと私は思うよ。
反省も出来たし
落胆の分(もう諦めていたから)歓びも大きいし。

という事を書くためにわざわざパソコンを起動した私であった。
ま 息子にメール送ってやりたかったって事もあるけど
(携帯がないのでパソしかメールが送れんのだ)。

世の中捨てたもんじゃないぜ!
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今朝の新聞に新聞社などが独自に行ったアンケート
原発は「廃止・縮小」か「存続」か の結果が載っていた。
その全部が「存続」の方が多数(55対45くらいか)だった。
情報操作かと疑ってしまったが
所詮福島騒動も対岸の火なのかも知れない。
しかし事故がなくても、核廃棄物を吐き出し続けるという事だけで
原発は悪なのである。
そしてひとたび大事故となれば損失は金だけでは済まない。

太陽光発電! 蓄電池! 風力。揚水力 小規模水力。地熱利用。
こんなにあるんじゃないか。
もう電力会社の脅しに負けちゃ駄目だよ。
たとえそれらが力を出し切れなかったとしても節電すれば済むじゃないか。


我が家は真夏でも殆どクーラーを使わない(息子曰く年に3回なんだそうだ)。
昨夏の猛暑も数日、それも一日3~4時間使っただけだ。
マンションの中層階 とはいえ 暑い。勿論暑い。
35度を越えると家中どこに寝転がってもひたすら暑い。

35度を越えたら扇風機は使ってはいけません。
熱を体内に送り込む事になるので熱中症をおこします。

室内35度という事はさすがにないと思うが(怖くて温度計見てない)
とにかく暑い。どれぐらい暑いかというと
テレビゲームをする気力すら奪われるほど暑いのである。
(テレビは窓際にあるので自然ゲームも窓近くでやらないといかん。
意識がやばくなったのでコントローラー置いて廊下に逃げた)
さすがの私も「ああ これが熱中症の入り口か」と思うほど暑かった。
夏の終わりには呼吸がやばくなり扇風機を使うに至った。
それでも私は勉強も仕事もしてないんだからクーラーは使わなかった。

午前9時を過ぎたらカーテンを閉める。
風の通り道は開けておくが、ぎりぎりまで暗くする。
ピークは昼ではない。2時半からだ。
洗濯物をしまい込んで、汗まみれのシーツを水洗いし、脱水せず竿にかける。
肌に汗が残っていると余計に暑いので水を浴びる。
5時までは団扇片手に涼しい場所を求めて家中を彷徨う。

夕方になったらベランダに水をまく。
照明をつけると暑い。だからぎりぎりまでつけない。

隣家の室外機の音にムッとする。
全戸クーラーの使用を控えたら都市部の温度は二度くらい下がるんじゃないか。
小さい子やお年寄りのいる家は仕方ないのだけど。

夜テレビを見ながら子供達が暑い暑いとうるさい。
「昼間に比べたらましじゃい」の一言で黙らせる。
扇風機の制限を解除してやっただけ有難いと思え!

息子がベンチの上に保冷材を並べた。
その向こうで扇風機を回し、保冷材の上を通る風を顔に当てて
うっとりしていた。
勉強すると約束すればクーラーつけてやるのに。
ソドムの話といい
古事記の国づくりといい
なんで私が解説すると下品になるか。

まあその方が記憶に残るんじゃ ない?(え 私だけ?)

古事記の天照大神の岩戸こもりは有名です。
彼女を岩穴から引き出そうと神様達が集まって宴会を開き
「あたらしい日の神が見つかったから祝ってる」と
天照大神をだまして戸を開けさせようという話。
その時の宴会でウズメという女の神様が踊るんだが
これはストリップなのである。
彼女が大事なたころをべろーんと見せると
神様たちは手を打って喜ぶわけだ。

短大で隣の席の友人がこの話を知らないと言う。
「でね 天照大神がこもってしまった穴の前で
(真昼のように明るくしようと)火をたいてね」とここまで説明した時
彼女はわかった!と叫んだ。
「いぶりだしたんだ!」
……ごきぶりですか。


さて。
旧約でアダムとイブが楽園から追放された後、
仕切り直しの最初の文に
「アダムは その妻を知った」とある。
ソドムの時にも書いたが、旧約における「知る」は「性的関係をもつ」事である。
わざわざここで「知った」と記述するという事は
それまでやってなかった ということか?

とても下世話な見方であるが
私は「神」を「母親」 アダムを「マザコン息子」と解釈する。
エデンは「親の家」である。
イブはアダムがそこを出るまで体を許さなかった。

ではそれまでアダムはどうしていたか(男の事情)。
そもそも、イブ誕生の記述はふたつあり、アダムと同時というのもあるんだが
一般にはアダムの肋骨から、とされている。

ところでどうして「肋骨」なのか。
肋骨なら折れてもあんまし痛くないから じゃなくて
「女性は男性の胸に寄り添う存在であるべし」という解釈がタルムードでされている。
頭の骨でもない 足や手の骨でもない
女性は男性の上に立つべきではないが、踏みにじられるべきでもない
その胸に寄り添って共に生きていくべきなのだ。

えっと。
これはアダムの後いろいろ動物を作ってからの話で
アダムが寂しがるので神様がアダムを眠らせて肋骨をとったのである。

ここでまた私の(無理矢理な)解釈だが
神(母親)はイブという息子のベターハーフを作りたくなかったんじゃないか。
だから他の動物をあてがおうとした(扱いやすい女と見合いさせるみたいな)。
でもアダムはどれも嫌だと言うから、仕方なくイブを作った。
や 最初から分かっていたんだけどね。イブじゃなきゃいけないんだとは。
でも もしかしたらアダムはいつまでも自分のいい子でいてくれるんじゃないかと
お母さんは期待しちゃったんだよ。
イブがアダムを奪っていくのは分かっていたから。
だから他の動物で満足させられないかなとあれこれ作ってみたんだ。

んじゃ何かい アダムは動物と「試した」のか。

ヘブライ神話に「アダムの子孫」のカエルの話を見つけた時に
私は「そらみろ」と思いました。

以上裏から読む旧約聖書 でした。
ブログタイトルのウロはウロ覚えのウロ。
ウロウロ迷ってばかりのウロ。
一番最初は実家の母の愚痴をこぼしたくて
「王様の耳はロバの耳」的な『木のウロ』のつもりで開設。

だからいいの! 間違えても。

という事にはなりません。

「我欲と仏教と」 に書いた「旧約の天地創造から計算すると紀元まで2000年」は
「4000年」の間違いです。
コメントをぽちするとお分かりいただけますが
ご指摘受けました。
なんとなく不安はあったんだけど でも間違えたおかげで
それがニュートンの試算によるものだと教えて貰えたので得しました。


時々旧約聖書ネタ出しますが(そしてウロな記憶のまま書いて半端してますが)
短大の卒論が「古事記」だったんですね。
なんで古事記で旧約か。
両者の創世記述を比較すると面白いんですよ。
放牧の民と農耕の民の違いがくっきりと出ます。

創世そのものが
『神』が言葉によって世界を作り上げたのに対して
古事記では身体を使って産み出してます。
イザナギとイザナミが国造りをしようと、さてどうしようかと
「生み出すのなら やることやれば いいんじゃないか」となり
頑張ったわけですね。
(あなたの体の欠けたところに わたしの余ったところをはめこみましょう てな)
それくらい日本人にとって土地と民は密接した関係なんですよ。

有名なカインとアベルの話も「農耕」と「牧畜」の対立ですし
エサウとヤコブの兄弟もそうです。

イブを唆したのが蛇、というのも
農耕云々が関係しているんじゃないかなと私は思っております。
(ククルカンがそうであるように
蛇は大地を流れる河の象徴でもあります。
やまたのおろちは河川の氾濫の擬人?化とも言われてます)


私が書くのはウロ覚えの雑学であって「知識」ではありません。
へえ と興味をもったら
自分できちんと調べて正しい「知識」にする事をお勧めします。
ほんとは私が確認してから書けばいいんだけど そーゆーのつまらんし。

人間は不完全な生き物です。
神様は世界をつくっては「よし」と言い続けたけれど
人間を作った時だけ「よし」とは言わなかった らしい(タルムードだったか)。
私には捨てられない「食欲」がある。
これがあるからこその人生だろうと思う。

我欲を捨てないと悟りはひらけない。
よって私は仏にはなれない。

仏になるというのは修行を積んで徳を積んで
段層をひとつずつ上がっていって、やがて頂点に立つこと。
ひとりの行者が頑張ると、衆生も引き上げてもらえるともあるが
(これが戒名の始まりなんだろうか?)
それにしたって仏への道は本来ほど遠いものである。

私らの頃、社会科で「大乗仏教」「小乗仏教」って習った。
今の教科書にこれが載ってなくて、子供達も知らないと言った。
どうしてなんだろう?

大乗仏教。大いに乗ると書く。のりすぎである。
ものすごいストーリィテーラーだと言っていい。
スケールがでかいので面白いことは面白い。

劫という時間の単位がある。仏教の単位は一番小さいのが刹那。
劫というのは
「一里四方の岩があって 百年に一度天女が舞い降りて
袖の端でそっと撫でていく。
僅かずつ、ほんの僅かずつにだが岩は削られていく。
この岩が全部消えるまでが」 一劫 である。
(ちなみに同じ大きさの箱に一粒ずつ砂を入れる というのもある)

♪ 弥陀成仏のこのかたはー いーまに 十劫を経たまえぇりーぃー

旧約の天地創造から計算すると紀元まで4000年。
比べて仏教のそのスケールの大きさがお分かり頂けるだろう。

弥陀というのは阿弥陀如来(如来と仏は同等)。
我が家は南無阿弥陀仏の浄土真宗である。他力本願寺である。
念仏が宗派によって違うのはご存知だろうか。
南無「阿弥陀仏」と言っていいのは浄土系だけである。
この阿弥陀如来さまというのは須弥山でなく
地図で言うと左側(西)に外れた浄土というところにおわします。

とてもじゃないけど須弥山の上まで目指せねえぜ という衆生のために
阿弥陀さまは救いの手を差し伸べてくださいます。
だから
よく四十九日といいますが
浄土宗では三十五日で忌明けとなります。
これは死者が浄土にたどり着いたよーという頃です。

そう。それだけ近いんです。二週間早く着いちゃうんですね。

って何語り口調になってるんだ。
てか。これ別にお坊様に聞いたわけじゃないんで。
仏教思想の本をぺらぺらっと読んで、実際の法要と重ねてみただけなんで
お坊様に怒られてしまう解釈かも知れない(んで そこんとこよろしく)。

ついでに。
南無 は「~に帰依します」「~を信心します」の意。
学生時代に先生が
「だから なんじゃらほい というのは じゃらほい教を信心しますって事だぞ」
と言ってたけど 本当なのかな?
(民謡にあるでしょう 木曽のなー とかいうやつ)

あああ。何が書きたかったのか分からなくなった。
でも仏教って面白いでしょ?
自分の家の宗派知ってます?

浄土真宗というのは教科書にあるとおり浄土宗から分派したもので
「阿弥陀如来を信じれば浄土にいける」という教えを更に推し進め
「一度でも『南無阿弥陀仏』と唱えれば極楽浄土にいける」と

……中世の先生が言ったんだよなあ……
講義で。
んで「だから今から一緒に唱えましょう」と合掌した。

人が亡くなるとお線香を立てますね。
浄土真宗では一本だけです。
これは死んだ人が迷わず浄土にたどり着けるよう道案内なんだそうです。
だから何本も立てるとどれが目印か分からなくなっちゃう。
そして35日の間絶やさず立て続けなければいけません。
「寝てられないじゃんか」と思うでしょう。
大丈夫。蚊取り線香みたいに渦になったのがちゃんとあります。

7日目ごとに関所があるのでお経を読んで応援します。
かつてはお寺さんを呼んでたのでしょうが、今はどうですかね。
正信偈ぐらいはあげられると便利ですね。
帰命無量寿如来 南無不可思議光 で始まるあれです。

般若心経でもいいです。あれはオールマイティ(どの宗派でもOK)です。
三蔵法師が持ち帰った膨大な量の般若経を
コンパクトにコンパクトにまとめた有難い(らしい)お経です。


なんてたらたら書いたけど
私は無宗教です。
「輪廻転生」を漠然と信じてます。
縋れるものはなんでも縋ります。
主の祈り(天にまします我らの父よ で始まるやつ)も覚えてます。

知ってましたか。
祈る時みたいに指を組んで手を合わせると
気持ちが落ち着きます。
これはツボか何かの効果なんでしょうか。
苛々したり落ち込んで先が見えなくなった時、やってみるといいです。
合掌も、それほどの即効性はないけれどそれなりに根拠あるみたいです。


結局……?

ああ。えらい坊様の話で
「琴の弦を強く張りすぎてもいけない。弛めすぎてもいけない。
中庸がいいでしょう」と言ったという説話があります。

こんな風に信心とつきあって
適度な欲に塗れつつ、でも他人を傷つける我欲は捨てる事が出来たら
いいなあと私は思います。

食欲は捨てませんぜ!
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