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木の洞にひとりごと うろ覚えのうんちく うろうろと右往左往
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ほら 僕が学校から家に帰る途中 道に落とした あの財布ですよ。

すいません オリジナルがウロなんでパロディになってません。

息子が財布を落としました。
家に帰り着いて 慌ててまた学校まで戻ったんですが 道中にありません。
部室にあるかもと望みをつないで次の日学校に行きましたが
そこにもなかったようです。

なかった(ハートの割れたやつ)
警察に電話した(ダウンな矢印と変な顔)

なんで親へのメールに絵文字(?)を入れなきゃいかんのだろう。

電話口の警察の方はむっちゃ丁寧で優しかったそうです。
「なんであんなに親切なんだ!」と息子は感動しておりました。

ありがたい事です。
大人だって丁寧な応対を受ければ嬉しくなります。
問い合わせ等慣れていない子供なら尚更です。
最初にこういう経験をすると次からも物怖じせず電話できるし
受けた優しさは忘れないだろうから、
自分が大人になった時、子供相手にも丁寧に接するようになると思います。

これで財布が出てくればもっといいんだが。

旦那は二度落として二度とも出てきました。
一度目は気づく前に連絡を受けたんじゃなかったかしら。
旦那自身二度拾って二度届けました(一度は私が代理で持って行ったが)。

娘は一度地下鉄のホームで現金を拾った事がある。
駅長室に届けて、半年後全額受け取りました。
ちょうど弟が入院している時で、そのお金でお見舞いの本を買ってきてくれました。
息子は覚えてるんかな。
弟が小さい頃は頼りになる姉ちゃんだったんだよ あれでも。

私自身はないけど、公園帰りに一緒にいたお母さんが
「あああっ 一万円札が踊ってるぅ」と駆け出し、拾った事があります。
派出所に届けるというので、
そのお母さんの子供を連れて家に戻りました。
夕方「落とし主が見つかった」と、
その方から頂いた和菓子のおすそわけを持って来てくれました。

今回の財布、ガット張りに寄るつもりだったので1万札が入ってました。
ガット張り代金は自腹。
残金(部活終わりだから)で買う予定だった私服は諦め。
これも授業料だわね。
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構想って あんた そんな悠長な事でいいのかねと
思わず呟いてしまいました。
6月末だの年末までには大綱をだの。

委員の方々、復興まで東北にお住みになったらいいのに。

メンバーを見てなんか「?」な気分になった。
都市建設や道路関係の専門家とか、計理士(? よく分からん。試算できる人)とか
そういう人がいなくてもいいんだろうか。
哲学や宗教や屁理屈で都市が作れるんだろうか。
今住むとこがない人に理想を説いたって耳に入らないよ。
食べられないパンだよ。
自分だけ暖かい寝床で寝て、
「文明を見直して新しい都市を創造するから待っててね」って
それはひどいんじゃないかしら。

それとも私の勘違いなんだろうか。
けど「年末までに全体像をまとめる」って誤植じゃないよな。

大体が最初に「復興税」を押し出すあたりが気に入らない。
人の金で絵図面書いて遊ぶつもりなのか。
(えんどう豆入り三杯酢ラーメン)(分かる人だけわかって下さい……)
要るだけ集めればいい では検討も鈍るというもの。
何を優先し、何を切り捨てるか。
東北は東北の人たちのものであって、学者たちの理想体現の場じゃない。

それとさ。
いずれ復興税が必要になるだろうという事は分かっていたけど
それを今前面に出すのは賢明じゃないと思う。

私だけだろうか。
「復興税」を集めて国の力で東北を立て直す と聞いて
じゃこの義援活動はなんだろうと思ってしまうのは。
いずれ圧し掛かる負担を危惧して支援の力を加減してしまう
とまでは言わないが
何かが少し違ってきてしまう気がする。

今じゃなくてもよかったな。
6月でもよかった。全体像が浮き上がってきて試算して
それからでもよかったんじゃないか。
一般市民が自分たちの支援の限界に気づいた時。
それぞれが自分の立場でどうすべきか考え、考え尽くした時。
増税、という国にとって安直な結論を突き出して
市民レベルの頑張りを蹴散らす真似はして欲しくなかった。

復興は机の上でやるんじゃない。
(そうそう。事件は現場でおきてるんだ だっけか?)
復興は学者の満足のためにやるんじゃない。

理想の絵図面書いている間に、家が建ち始めるんじゃないかと思うがね。

委員さん 被災地にバラック建てて住んで下さい。
現実と理想のギャップをちゃんと感じて下さい。その上で話し合って下さい。
毎日毎日そのことだけ考えてください。片手間じゃ駄目です。
その前に。

そもそもブログを書くのは興味を持って欲しいからだろ。
だから昨日私が悩んだ「興味深く拝見」のコメは悪くない。
嘆き哀しむ人の自宅に乗り込んで根掘り葉掘り訊いたわけじゃないんだ。
書かれているものを読んだだけ。
自分の身に置き換えて考えてみる。
私だって私なりの不幸を持っている。言いたくない話は書かない。
書く 、そして消さないという事は読んで欲しいという気持ちがどこかにあるからだ。

結論。私は悪くないぞー!
でもね。

ライフラインが復旧しているとはいえ被災者である事に変わりない人を
つまらない(私にとってつまらなくなくはないが)事で煩わせたのは悪かった。
この点は反省しないといけないと思います。

さて。この話は本当に終わりにして。

家事は好きじゃないけど、その中で苦にならないのと
これがなければなあと思う家事がある。
一番嫌いなのは「弁当箱を洗う」である。弁当を作るのはわりと好き。
食事を作るのはその時の気分による。
ノリノリな時と、「たりいぜ」な時と。皿洗いはいつも嫌。
洗濯は干すのも入れるのも嫌いじゃない。

ところで洗濯干す時って他の主婦の人はどうしてるんだろう?
私は定位置に止める。
洗濯リング(って言うのか? 洗濯バサミがぶらさがってるやつ)の
左側に「息子のパンツ」「娘のパンツ」「娘のキャミ」「私のパンツ」「旦那のパンツ」
右側に「私のブラと靴下」「娘のストッキング系」「息子の靴下」「旦那の靴下」。
タオルは左側の奥の竿。パジャマのズボンとか旦那のシャツはその手前。
右側の竿にハンガー物をかける。手前の竿に色物を掛ける。濃いものは室内。
畳む時、取り入れた洗濯物はまずそのまま室内にぶらさげ、
まず「洗面所に持っていくもの」だけを集めて畳んで積み上げ、それから
「私の部屋にもっていくもの」「子供達のもの」をそれぞれ外して畳むを繰り返す。
てんでばらばらに干すより効率的だと思うんだけど
知人とか見たら「偏執的~」って言いそう。

掃除は片付けるのは好き。掃除機は嫌い。
拭き掃除は気分次第。
とにかく捨てるのが好き。


育児。
嫌いな育児。「子供をあやす」「子供と遊ぶ」
んこのおむつを換えるより嫌いである。
おむつ換えというのは「分かりやすい」仕事だからいいんだ。
赤ん坊はわけがわからん。だから
世話するのはいいが、相手をするのは苦手。
哺乳瓶でミルクをあげるのは好き。
あうあう喰らいつくのを見るのも、うくうく飲むのを見るのも
最後に哺乳瓶の底から乳首の方を覗き見るのも楽しい。

子供は嫌いだが、だからこそか、子供を調教するのは得意。
遊びに来た子を我が家のルールに無理矢理従わせる。
だがそういう子供達が私を嫌うかというとそうでもない。
小さい頃一度ならず私に泣かされた子供達が、
今でも私の顔をみると話し掛けてくる。
子供でも動物でも秩序は好きなんだと思う。

ルールを守るという事はルールに守られるという事でもあるしね。

子供の相手が嫌いだから
自分の子と遊ばせるために他人の子を預かる。
子供と遊ぶくらいなら、その子の分もご飯を作る方が楽なのである。

だから「10人の子供に食べさせる料理」を作るのは結構好き。
皆で食べればそれだけでおいしく感じるから誰も文句言わないし。
誰も傷つけない言葉なんて そもそもないんじゃないかね。

本日の朝刊は重かった。
厚さじゃない。内容が。
原発。死刑。臓器移植。

原発は私は反対だ。今日の記事に研究者たちの事が書かれていた。
学者も政治家も要は金か?

死刑は私は存続派だ。
今回の無期判決は腹が立った。
自首がどう影響するかだけが焦点だと思っていた。
死刑は報復じゃない。遺族が立ち直るための手段だと私は思う。
犯人は被害者のみならず遺族らの人生も踏み躙ったのだ。
遺族が死刑を区切りとして歩き始めたいと願うのなら死をもって償え。

臓器移植は基本反対。でも心情的には否定も批判も出来ない。
10代の子供であれば移植して生き延びさせたいと思っても不思議はない。
提供する側の問題は、本人ではなく家族の問題だと思う。
私は人間は死んだらそこまでと思っているので遺体の損傷には拘らない。
だが家族が嫌がるなら提供はしない。
逆もしかり。当人が嫌だと言うのなら勿体無いと思っても提供しない。

旦那は他人の臓器を貰ってまで生きたいのかと言う。
諦められる年齢と諦められない立場がある。それは仕方ない。
最初から選択の余地がなければいい。それならば死を受容できる。
だからその意味で臓器移植の道は罪だと思う。
じたばたせず死を受け容れたい。でも心の片隅で可能性を考えてしまう。
哀しみだけで見送りたいのに
提供をするの受けるのと考えなければならない。

乳児の移植、それも海外に渡っての手術はどうかと思う。
それは高齢な母体での人工的出産に通じる。
「自分の子」がどこまで特別な存在であるか。
子供はいる。遺児も捨て子も。その子と自分の遺伝子を引き継いだ子と何が違うのか。
子供は育てて初めて自分の子供になると私は思っている。
仮に自分の本当の子が他にいると知らされても
私は絶対に今の娘や息子と交換する事はしない。こいつらが「私の」子なんだから。

話が逸れたな(いつもの事だ)。
今回の移植は親がそれで救われるのならいいじゃないかと思う。
失わなければならなかった我が子が、部分的にでもどこかで生きていてくれる
そう考えられるならそれでいいじゃない。
決心した状況までは分からないからね。

脳死の可能性の告知と同時に提供の打診をされたら私は怒る。
死は死でしかないが、訣別は大切な儀式なんだ。
臓器を得て生き延びる命も命だが
見送った後に生きていく家族の人生も命なんだ。
大事な儀式をしくじって引き摺りたくはない。


こういう話だって所詮今の私には他人事で。ただの関心で。無責任で。
けど仕方ないよね。
いつまでもランキングに残ってるから
なんか引き摺った気分だわ。

これは嫌味のつもりでも棘のつもりでもありません。
最終的なレスを読んで、私が間違っていたのかなと
まだ客観的に考えられないので書いてまとめようと思うだけです。

被災者(に含まれる)人のブログに入って
震災に関する記事を読む。
蒙った被害や状況も書かれているが
災害に対する心構え(の参考になるような記事)も含まれている。
報道されない、半壊住宅やライフラインを切断された地域の情報に触れて
それらを「興味深く」感じる事は
やっぱ内側の人間にとって不愉快なことになるのだろうか。

でもそれならそれで(棘)なんてぼかさずに
はっきりと「興味をもって読まれるのは不愉快です」と言って欲しかった。
もう話はしたくないと言われちゃったけど
それだけは伝えたいなあ けど 読まずに捨てられる のは構わないが
これ以上刺激したくない。

別の、被災地近隣の人の書いたブログに
同じように「興味深く拝見させて頂きました。記録してくださってありがとう」とメッセージを送った。
大変さもしんどさも伝わってきたし
その合間に「だからこういう用意があったほうがいいよ」的な事も書かれていたから。
恐怖も不安ももろもろの葛藤も想像の上をいく。

「興味深く」って表現は被災者を傷つけるんだろうか。
今回の事に限らず
たとえば事故や事件の記事を読んで「興味をもつ」のは
被害者や当事者への侮辱になるんだろうか。
それは安全な地に立つ者の驕りなんだろうか。

興味深くと興味本位は勿論違うよ。

その混同があったにせよなかったにせよ不愉快にさせたんなら謝りたい。
でも謝るという行為自体、許しを請うものだと私は思う。
反省するふりする被告より、いっそふてぶてしい被告の方が真実味がある。
やらかした事は償えない。
私を排除する事で終える事が出来るなら そうしてもらう事にしよう。
でも次をやらかさないために言葉の選び方は覚えておかないといかん。

けどさあ。
実際のところどうなんだろう。

そう。レスの中に「不幸な経験をしたリアル知り合いに対しても言うのか」とあった。
言うだろう。
興味深くという言葉を使うかどうかまでは分からないけど
「そっかー やっぱ 当事者じゃないと分からない事ってあるんだね」くらいは言うと思う。
そうやって不幸をはぐらかす事も
相手を情報発信者として「ただの被害者」にしない事も
まあ意図しているわけじゃないけど 思いやりにはならないのか。

時々感覚ずれてるからなあ 私。

ブログというかネットだってコミュニケーションだってのは重々承知してるよ。
私 リアルとネットの違いあんまりないよ。
なぜかネットでの方がちょこっとお利巧に見られることが多いけど
それは話し言葉と書き言葉の違いだと(落差が激しすぎると昔友人に言われた)思う。

まとまんないなあ。

とりあえず最終的なレスを戴いたという報告方々
あの(棘)は私の文章を嫌味にとったが故でなく
「興味深く」という表現(というか私の心情)に対してのものだった
という事をお伝えして、この件は本当の本当に終わりにしたいと思います。
……から早くランキングから消えてくれたまえ。
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